日経リスキリングアワード2024 企業・団体イノベーティブ部門最優秀賞受賞。二人の代表が今語るLSP誕生秘話とそれぞれの道のり。【前編】

思えばリスキリングという概念が世の中に市民権を得る前からライフシフトプラットフォーム(LSP)の構想は走り出していた。2017年、当時電通の労働環境改革推進室で、社員が活躍するための環境整備とともにミドルシニア層のキャリア育成支援に向き合っていた山口裕二氏。氏がそこでどうしても既存の会社の枠組みでは解決しきれない根本的な課題があることに気づいた時、LSPの仕組みの基礎が脳内に浮かび上がった。それは端的に言えば会社という組織から人財を解放してしまうという発想だった。それから約7年。今LSPは電通出身以外の参加者も加わり約250名、企業の垣根を超えた人財キャリアアップのプラットフォームとして機能し、ついに表題の賞も受賞するに至った。 今回ニューホライズンコレクティブ(NH)※の代表として陣頭指揮をふるう代表のお二人に改めて時間をいただき、賞受賞の経緯とここまでの道のりについてお話を伺った。 ※NHとLSPの区別について。LSPは参加するメンバーを有機的に活動させるサービス・拠点でそのものあり、NHはLSPサービスを提供・運営する電通出資の事業社という位置づけとなる。

ニューホライズンコレクティブ合同会社 代表/株式会社PLAN T. 代表取締役
クリエイティブディレクター、プロフェッショナルコーチ、NLPトレーナー

野澤友宏

野澤友宏さんのプロフィール:

【「教えあう社会、学びあう世界」を目指して】1999年に(株)電通入社。コピーライター・CMプランナー・クリエイティブディレクターとして、東芝・UNIQLO・ガスト・三菱地所・ナビタイム・リクルートなど100社以上の企業を担当し、1000本以上のテレビCMを制作。2020年末、電通を退社。2021年1月より「ニューホライズンコレクティブ合同会社」の共同代表として人生100年時代の新しい働き方・生き方を提案している。◆電通クリエーティブ局に配属後、日々、100案以上のCMアイディアを徹夜で考える生活をしながら、効率よくたくさんのアイディアを出す思考法・発想法を研究。「脳と心の取扱説明書」と呼ばれる最新の心理学NLPを学び、潜在意識を活用したオリジナルの発想法を開発し、さまざまな企業・学校で提供している。

二人の代表

2021年1月にNHが会社として立ち上がって以来、NHには二人の代表がいた。山口裕二氏と、野澤友宏氏。 代表が二人いる、ということ自体も珍しいが実は二人がNHに携わる立ち位置が違うのも独特だ。野澤氏はこの制度を立ち上げた時に自らも手を上げ、ほかのメンバーと同様に電通を退職、個人事業主となり制度に参加した。いっぽう山口氏は、あえて電通に自らの籍を残しつつ制度に関わることを選んだ。そのいきさつについては追って述べるが、この形を取ることによって違う視点からLSPという前例のない試みを経営的に育成、飛躍させることができた。 電通の社内でLSPの構想が浮かび上がる以前、二人は全く違う部署と役割でそれぞれのキャリアを積み重ねてきていた。 山口氏は1995年に入社。以降、人事局採用担当、営業局で大手ビール会社等担当、自ら志願してベトナムへ海外赴任、帰国してクリエイティブプロデューサーから大手衛星放送事業会社へ出向など、2017年に労働環境改革推進室に配属されるまで様々な側面から会社の経営やビジネスと向き合ってきた。 「営業時代のことですが、あるクライアントの役員さんに非常に可愛がっていただきまして。外部の人間なのに社の経営会議に参加させていただいたり、取引先との重要なやり取りの横に同席させてもらったりしました。ある時、その役員から全国の支社を激励するためにキャンピングカーを手配してほしいと頼まれましてね。私もそれに乗って一緒に全国行脚し、3か月ほど寝食を共にさせていただいたりしました。その時に会社の経営者が何を考え、何をやっているのかということを目の当りに勉強させてもらいました」 もともと若き営業時代から部の人材が、どうすればモチベーション高く、価値を発揮するかといったことを考えるのが得意だったという山口氏。当時実際に氏が作成した計画にのっとって部員全員でそれを実行したところ、在籍部署の売上が倍増したという実績を持つ。様々な仕事や経営者との出会いを重ねながら、その感覚にさらに磨きをかけてきた。 いっぽう野澤氏は1999年入社。以来そのキャリアのほぼ全てがクリエーティブ局在籍となり、コピーライターとして目まぐるしく活動されていた。それがどのような経緯でLSP構想と接点を持ち始めたのか。 「クリエーティブの作業って一見個人作業のように映るんですけれど、意外にチームプレーなんですよ。ある年齢に差し掛かってチームをまとめなくちゃいけない立場になり、少しスキルが必要だなあと思い始めたのです。そこでチームビルディングについて体系的に学んだり、コーチングの資格を取りました。まあ自分にとってのリスキリングです。で、当時そういうことができるクリエーティブの人ってあまりいなかったんでしょうね。自然と人事局とつながりができるようになり、人事系施策の説明ビデオ制作などを依頼されるようになりました。自分自身が昭和48年生まれというボリュームゾーンの人間でもあったので、これからの働き方について何かと課題となる年齢層だなとも思い、人事施策を自分でも考え始めるようになりました」 折しも働き方改革が全社的な取り組みとなり始めていたさなか、全く異なる道を歩んできた二人の関心事・向き合い始めたテーマが一点に重なってきたわけである。まるで惑星の直列現象のように。

LSPの原型

野澤氏は続ける。 「2017年のころだったか、ある役員の方と山口さん、あと僕の同期の人間と、お酒を飲んでいる時のことでした。何かのきっかけで、電通は42歳を定年にしたらいいと僕が発言したんです。なぜなら会社員としての働きぶりのピークはそこですから、と(笑)。それ以降は退職金をもとに独立するなり、会社に残り社内でのマネジメントを志望するなら海外のMBAなどを取るとかして経営をきちんと勉強した人が続ければいいのでは?と話をしました。そしたら山口さんが“面白いね”と賛同してくれたんです。“自分も同じようなことを考えているんだよ”と言って、後日会社の小さな会議室で見せてもらったのがLSPの原型だったんです」 山口氏から見せられた企画書。そこに書かれているスローガンは、 「人財解放」 というものだった。 山口氏は述懐する。 「いろんな仕事をいろんな部署でやらせてもらってきて、すごく思っていたのですけれど、やはり電通には優秀な人財が多いです。ただ、あることがわかりました。当時、労働環境改革推進室で社員の方々の業務分析をしたり、1年に2000人くらいの人ともお話ししたんですけれど、組織の中で人と仕事のミスマッチが起きているのです。最適に人財を配置できおらず、能力が発揮できない、モチベーションが上がらない、あるいはマッチしているように見えても個人的には他のことをやりたがっている、とかですね。会社からすればあいつ働かないなあ、と言われたりするんですけど、チャンスが回ってきていないだけなんですよね。それは会社にとっても個人にとってもハッピーじゃないです。もちろんそれを社内の組織人事で解決できればいいのですけれど、電通もそこまで業態変革をしているわけでもなかった。じゃあ、社外に出口を作ったらよいと。優秀な人財を会社の中に囲い込むことのほうがもったいないと思った(笑)。それを“人財解放”と称したんです」 中高年社員の能力が発揮できないのは、人と仕事のミスマッチ。この指摘についてはインタビューをしている中で野澤氏も全く同様の見解を述べていた。 幸運であればキャリアを重ね、脂の乗りきってきた時期に役職を与えられる。ただその一方で現場とは少し距離を置かされ管理業務を付託されるようになる。あるいは所属局のバックヤードに配置転換される。部署異動を余儀なくされる。個人の意思とは関係なく組織は人を配置していく。そこに生じる人財の職務への志気喪失が、会社、個人、双方に不幸を招いているというのだ。 ではミスマッチが社内で解決できないならどうしたらいいのか。 個人を組織の枠組みから解放、独立させて新たなセカンドキャリアを育むための支援装置を作ったらどうであろう。これがLSP発想の原点と言えるものだった。

LSPの具体化

上記のような問題意識をベースとしてLSPは芽吹き、この後徐々に根をはり、幹を膨らませていく。野澤氏は語る。 「そういった支援装置を作る時に、まず参加者とは業務委託で契約を結び一定の固定報酬を約束する必要はある、という考えは最初に山口さんの頭にあったんだと思います。僕はそれに“学ぶ”という要素を加えたかったんですよね。つまりそれまでの経験値を生かして時には自分は教える側になり、時には学ぶ側になる。それを自分のキャリアとして、ひいては社会にも還元できれば良いと。あとみんなが一斉に会社をやめてしまう時に“仲間”というそれまで社内で培ってきたリソースのつながりもそのまま必要なんじゃないかと思ったんです。それが結果的に固定報酬を維持させる原動力にもなるはずだと考えました」 業務委託制度での一定の固定報酬、学ぶ場としての機能、そしてその後のビジネス相乗効果を期待する仲間とのつながり(これは独立後のメンバーの精神的な支えにもなっている)。この3つを柱として2021年1月にLSPはついに設立されるに至るのだ。当初この制度の趣旨に賛同し参加を表明した電通社員は200名超。これがのちの第一期生としてLSP活動の大きな初速の役割を担っていく。 さてここまで山口氏と野澤氏のその頃の考えについて焦点を絞って書いてきたが、当然お二人の会話だけでLSPが出来上がってきたわけではない。当時の社内外、上下の多くの人々と幾度も会話を交わし、綿密に根回しをした上での一大チャレンジであった。 ただ面白いのはそこまでの経緯が完全にボトムアップの作業であったということである。 当時を振り返りながら山口氏は楽しそうに語る。 「もともと労働改革推進室で私が取り組んでいたミッションは、法令順守・業務改善・人事制度・社内DX・マネージャー支援・オフィスインフラ整備・育成制度など。。。社員が活躍するあらゆる労働環境の側面から仕事のやり方を見直し、組織を効率化して会社の業績を上げることでした。さらにはその上で社員の給与アップを図りたいとも思っていました。ただね、そういった仕事に取り組んでいるうちに、どうしてもそれを普通に考えているだけでは解けない課題が出てきたでんです。その解がLSPだった。つまりこの制度はけして宿題を与えられてできたわけではないんです」 さらに野澤氏の立場からすれば、クリエーティブ局所属のまま携わっていたわけで、 「最初は趣味のような形でやっていましたし、いつから業務になったんだっけ?と思っていました(笑)」 そのような意味では、LSPの誕生はきわめて副産物的な出来事だったといえるだろう。 【後編へと続く】

ライター黒岩秀行